2012年05月30日 11:40:35
――旦那方。
先生を御覧なせえ、いきなりうしろからお道さんの口へ猿轡を嵌めましたぜ。――一人は放さぬ、一所に死のうと悶えたからで。――それをね、天幕の中へ抱入れて、電信事務の卓子に向けて、椅子にのせて、手は結えずに、腰も胸も兵児帯でぐるぐる巻だ。
(時夫の来るまで……)
そう言って、石段へずッと行く。
私は下口まで追掛けたが、どうして可いか、途方にくれてくるくる廻った。
お道さんが、さんばら髪に肩を振って、身悶えすると、消えかかった松明が赫と燃えて、あれあれ、女の身の丈に、めらめらと空へ立った。
先生の身体が、影のように帰って来て、いましめを解くと一所に、五体も溶けたようなお道さんを、確と腕に抱きました。
いや何とも……酔った勢いで話しましたが、その人たちの事を思うと、何とも言いようがねえ。
実は、私と云うものは……若奥様には内証だが、その高崎の旦那に、頼まれまして、技師の方が可い、とさえと一言云えば、すぐに合鍵を拵えるように、道中お抱えだったので。……何、鍵までもありゃしません。――天幕でお道さんが相談をしました時、寸法を見るふりをして、錠は、はずしておいたんでございますのに――
皆、何とも言いようがねえ、見てござった地蔵様にも手のつけようがなかったに違えねえ。若旦那のお心持も察して上げておくんなせえ。
あくる日岨道を伝いますと、山から取った水樋が、空を走って、水車に颯と掛ります、真紅な木の葉が宙を飛んで流れましたっけ、誰の血なんでございましょう。」
(峰の白雪麓の氷
今は互に隔てていれど)
あとで、鋳掛屋に立山を聴いた――追善の心である。皆涙を流した……座は通夜のようであった。
姨捨山の月霜にして、果なき谷の、暗き靄の底に、千曲川は水晶の珠数の乱るるごとく流れたのである。
大正九(一九二〇)年十二月
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